進藤冬華の滞在日記
二冊の本から、ちょっと変わった人のことを考える
2020年11月28日

常陸太田に滞在する前に書き記していたことを滞在後見返して、書き足してみる。

このプロジェクトのことを考えているときに随分昔に読んだ小説「ゾマーさんのこと」のことを思い出した。ゾマーさんは街の変わり者で、いつも街の中を杖をつきながら持って歩き回っている。それを街の人々も誰も気にかけていない様子だが、物語が進むうちに、彼には事情があって歩いているんだろうと感じる。結局、その事情は最後まで明かされることはないが、歩き回ることを止めることができないほど彼にとって大きなことなんだと思う。

私は今回、街の人々が「ちょっと変わった人」を受容することについて、街へ投げかけをしようとしているけど、実際時々見かける街のちょっと変わった人の中にはそうせざる得ない人もいる。もしかしたらそちらの方が多いかもしれない。私の中に街中をうろつき回らなければならない切実な理由はない。私は「ちょっと変わった人」になりすますだけだ。そう考えるとき、自分の振る舞いを慎重に考えなければならないと思い始める。「街の人への投げかけ」であることが中心にあり、「ちょっと変わった人」になりすますことではないことを。私はこの行動をするにも関わらず、切実な人の側に立っていない。

こうしたことを考えていたときに、たまたまある本を読む機会があった。この本は精神科クリニックに就職したセラピストがケアとセラピー、その環境や仕組みについての体験と考えを記した本だ。クリニックには、社会の中に居ることが難しくなった人々が通ってきている。通所してきている人は、ただそこに居て、日がな一日何もしていないように見える。その中で印象に残っているのは、でも、そう見えるだけで本人の中では(誰かの声が聞こえるなど)何かが起こっているそうだ。だから、居るだけで大変な状況のそういう人のため、安全に居ても良い場所としてそのクリニックがあるのだと思う。こうした切実な状況を私はしらずにいた。

この話を読みながら、歩き続けるゾマーさんがそうせざる得ない状況とそれを許している街や街の人々と話が重なる。でも、物語の中ではゾマーさんは最後に湖の中へずんずん歩いて行き、最後に水の中に消えてしまう(自殺?)。そして街の人々がゾマーさんがいないことに気づくのはだいぶ経ってからだ。ゾマーさんは、そこにいていい人ではなく、すでに街とって透明な人になっていた。誰も省みることがなかった。同時に、ゾマーさんは歩くことに集中し自ら外の世界をシャットアウトしていた。

常陸太田滞在後に思ったのは、それでも、誰かがゾマーさんのことを気にかけている状況は多分必要なんじゃないかということだ。それをしていたのは、物語の語り手である主人公の少年だったんだと思う。彼はゾマーさんが湖に入って行くのを目撃したのに、それを誰にも言わなかった。こうした態度はゾマーさんに対する尊重のようにも感じる。私の街への投げかけに対する、一つの私の求めているリアクションをこの少年はしているのかもしれない。