オル太の制作日記
手紙ー日立鉱山
2021年3月2日

郷土の昔話のストーリーテラーであり、『NPO法人共楽館を考える集い』の副代表理事でいらっしゃる大畑美智子さんに風流物、祭りを続ける日立の人々と、日立鉱山の労働や暮らし、そこにある物語に関心があり、手紙を送った。

大畑さんからのお返事は、日立鉱山の歴史を軸に様々なことが書かれ、山中友子や共楽館、日立の労働者の歌などについての記述や資料も同封されていた。

日立鉱山は、久原房之助と大橋真六が1905年に赤沢銅山を買収し、翌年に堅抗の開削に着手し採鉱作業が始まった。山中友子とは坑夫の技術継承の親分・兄貴分との血盟のちぎりである。三年三月十日(鉱山に三年、親方に三ヶ月、兄貴分に十日)の修行を終えると、友子取立免状をもらうことができる。この取立て式では、隣山からの立会人の前で昔は血をすすりあったり、しょっぱい酒を飲んだりしたらしい。友子制度は江戸時代からあった。山師は野武士と同等の扱いで、鉱山内のことは役人支配から外れた一種の治外法権であったことも知った。各地から労働者が集まるが、彼らは飯場と言われる鉱夫の募集、作業の請負から日常生活の管理までを担う場所が窓口となる。

日立風流物はかつて、宮田風流物と呼ばれ、日立鉱山と日立製作所が飛躍すると同時期に日立風流物も大型化し、農村から日立へ移った労働者たちが故郷を思い、国道を埋める程賑わった。他の地域の農村にも同じような芸能はあったが、近代産業が栄えた宮田風流物だけが今に残っている。また、この発展と共に一山一家の日鉱スピリッツが芽生えていったらしいのだが、その結束力や坑夫の日立への移動には、友子制度が関係しているようだった。友子制度は技術継承や危険と背中あわせの労働の中で、相互扶助をする制度だ。鉱山を渡り歩く友子も多くいて、日立鉱山だけでない例えば久原の前任地の秋田県小坂鉱山など、山を超えての坑夫達の結束があったのだろう。

友子や坑夫の移動や、結束について、もう少し深く知っていきたい。

(川村)